画素数1620万画素、ズームはなんと40倍、35mmカメラに換算すると標準広角24mmから超望遠960mmまで。
コンパクトデジカメと言いながら、かなり強力です。超望遠が有ると、野生動物などを取りたいときに力を発揮します。
ただ、ねらいを定めるのが難しいので、三脚があった方が便利です。台のようなものの上に置いて固定する方法もありますが。
ISO感度は100から12800まで、100は一般的に売られているフィルムの感度と同じで、12800は超高感度と言うことになります。
わずかな光でも明るく見える感度になります。ただ暗いと色はハッキリしませんが。
たとえば、少し暗い山中で滝から跳ねる水しぶきを、静止させて撮りたいとき高速シャッターにしたいので、感度を上げられれば容易に撮れます。
私にカメラは古いので、800までしか上がりませんのですぐオーバーします。
カメラのシャッターにはバルブと言って、シャッターを抑えたとき解放になり、放すと閉じる機能があるカメラがあります。
デジカメの場合、レンズ交換式の一眼レフにしか付いてないようなので仕方がないのですが、
有ると非常に便利で、打ち上げ花火をとるとき、シャッターを開放にして、レンズの前に軽い布を被せます。
花火が上がる直前に布を取り、間は布を被せます。すると街灯とかは写らず花火のみきれいに映ります。
このカメラでは8秒が最長なので、打ち上げ花火は少し大変です。
最近はそのカメラ固有の、充電電池を使うカメラが多いのですが、これは単3電池4本使用します。
大量に写真を撮ったり、ストロボを頻繁に使う場合は、これもなかなか有利です。
単3は安く、何処でも手に入ります。一方、充電電池は結構高価だし、何処にでも有るわけでは有りません。
これが以外と大事だったりします。全体的にはなかなかいい感じだと思います。

自分で自分を 「悪いやつだなー。心根の醜いやつだなー。」 と思うことが良くあります。自分を信じてくれている人間を「ここで裏切ったらいったいどんな顔をするだろう」 と想像すると、愉快な気分になることがあります。 こういうことを公言すると、 心優しい人々は困った顔をします。 けれど、こういう情報って大切だと思います。
その人の邪悪さが適切に開示されているならば、 その「邪悪さ」の被害を最小限に留めることが出来るからです。
これが逆に「自分は善良な人間である」と信じ込んでいるのであれば、 邪悪さについての情報は一切開示されることがありません。
他者にかける迷惑について自覚することもないのだから、 管理することが出来ません。 より他人に迷惑をかけるのは、後者のタイプです。 もし「邪悪さ」という概念が「他者にかける迷惑」という外形的なデータで示されるのであれば、
「邪悪な人間はあまり邪悪でない」というパラドクスが生じますね。
はたして「邪悪さ」とはいったいなんなのでしょうか。
それは、1人の人間についての「物語」のキーワードです。 僕たちは、何かについて知ろうとするとき、 それについての「物語」を語ることによってしか知ることが出来ません。 「自分」について知ろうと望むのであれば、「自分」についての「物語」を語ることなしには一歩も進むことが出来ません。
「私の真実」を知るためには、 「私についての物語」を紡ぎ出す作業から始めなければなりません。

プロのスポーツ選手は、オリンピックなどの大勝負での勝利インタビューにおいて、 ほとんど必ず『家族の支え』を口にします。 これは、物理的な支えだけを言っているのでは無いと思います。練習中や競技の最中に、ふとした時に『家族の存在』を近くに感じるのです。 僕は別にオカルトな話をしているわけではありません。 そのように本人が『思い込んだ時』、 実際に人体には活力が湧いてくるという話です。 『他人の不幸は蜜の味』なんて言葉もありますけれど、 人は『誰かの幸福』を自らの力に変えることも出来ます。 全ては自分の心がけ次第だと思います。他人を呪ったり束縛して生きるのではなく、祝福して生きる。 そんな風に毎日を生きるのって、誰が何と言おうと、 ちょっと素敵なことだと僕は思うのです。そして、こういう文章を書いてみると、口角が微妙に上がり、眉毛の端の方が少し下がってくるような感じがします。 今はとても良い気持ちです。
言葉には現実を変成する力があるんですよね。 今日もあの子が元気に生きている。 そう思ったら僕にも元気が湧いてきます。 それは、宗教の信仰者が、 神様やそれに準じる者が自分を見守っていると感じると『霊的に腑活された気持ちになる』のと同じようなことだと思います。

恋愛は傷つけたり傷つけられたり。 二人の人間がこれ以上近づけない思想上の壁を実際に目の当たりにしたり。 そういう生々しい実体験を通じて、『欲しがること』の愚かさを知っています。 『欲』という漢字の意味は、形を見れば分かる通り、 谷のように欠けてひっこんでいるという意味です。英語のwantは『欠乏』という意味でもあります。
自分の周囲(友人でもテレビドラマの登場人物でもいいです。子供にとって最も近い人間である両親も男女のペアですね。)と自分を照らし合わせて、自分に無いものを感知した時、人はそれを『欲望』します。 夢見る乙女が恋愛初期の発熱から目覚めた時、 『私は恋に恋していたんだわ』なんてことを良く口にしますね。
恋愛を欲しがる人は、 恋愛していない自分を、本来あるべき自分からの欠如として捉えます。だから、『私が望む恋愛』から離れた行動を相手がすると、 自分自身の身が切れられたような錯覚を起こして、 痛みに苦しんだり、相手を糾弾したりします。
彼らが求めているのは、現実の誰かではなく、 『彼の幻想の中の誰か』に過ぎません。
もちろん、あらゆる現実の人間関係は『幻想』を基盤にして成り立っています。
ですから、『幻想』を持つこと自体は悪いことでもなんでもありません。ただ、それが『幻想』であるなら、自分の意志の力で形を変えることは出来るはずです。
恋愛とはこの意味において、当人のマインドセットの問題であります。
すくなくとも僕はそう考えます。

「ほんとうの自分」を探しに行くのは「今、ここ、自分」から離れたところです。 「あなたのことを知っている人が誰もいないところ」に行くのです。
それが俗に言う「自分探しの旅」というやつです。 「あなたのことを誰も知らないところ」にいかないと、 自分探しが出来ないなんて、ちょっとおかしな話ですよね。
でも、それは間違いではないんです。 なぜなら「ほんとうの自分」なんてシロモノ自体がちょっとおかしいからです。 僕たちが「ほんとうの自分」に出会うのは、
僕たちのことを何も知らない人間に向かって「自分の過去」を物語るときです。 「私のことをまったく知らない人間」じゃないと困るんです。 だって、「ほんとうの自分」なんてのは嘘ばっかりなんですから。 まあ、嘘というのはちょっといいすぎですけどね。 厳密には嘘ではなくて、 過去にあった事実を、自分の都合の良いように選択的に回想するんです。 相手に心清い人間だと思って欲しければ、過去に行った善い行いなんていくらでも語れますし、 相手に醜い人間だと思って欲しければ、過去に行った醜い行いなんてのもいくらでも語れます。 その人が「心清い人間」だとか「醜い人間」だとかが初めから決まっているわけではなくて、 「相手にどう思って欲しいか」によって僕たちの語る「自分史」は変容するのです。だから、「自分探し」をするときには、自分の過去がべっとりと張り付いている場所から離れないとダメなのです。